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論理というものについて書いています。
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僕が論理学の本を読んでみようと思ったきっかけについて書いてみます。

昔、ある本の中である学者さん(どこでかは忘れました、汗)が、
昔学者になりたての頃、師事していた教授に
「学者にとって、論理的に考え、それを論文という形でまとめられることは必須の能力だから、論理学は最低学んでおいた方がいい。そうでないと、仕事なんてできないぞ。」
とアドバイスされ、試しに勉強してみたそうです。
そして、読んでみて、その教授が言っていたことがある程度年数を重ねてから、しみじみと理解できるようになった…といった感じの話が書いてあったんですね。

それで、よくよく考えてみると、
学者というのは、本当に論理的にものを考えるのが得意な人が多いなと思ったんです。

どうしたら、こんなに理路整然と考え、文章にする事ができるようになるのかなとビックリするほどです。

それで私も試しに論理学を読んでみようと思った訳です。

論理学の中で語られていること自体、
別に特別なことはないです。
論理というもの自体に特別なことはないからかもしれません。

がしかし。
論理というものについて改めて考え直してみると、
大変役に立つという気がします。

論理的にものを考えるのが苦手とか、
論理的にものを考えられるようになりたいといった方は、
一度、論理学書を手にとって、読んでみるのがお勧めです。

意外に役に立つものですよ♪

因みに。
私が今まで何回か繰り返し読んでいる良書はこちらです。


論理学入門 (岩波全書)

入門書となっていますが、
一般の人からしたら十分すぎる程充実した内容になっています。
とりあえずこの本に書いてある内容を理解しておけば、
論理的にものを考えることで苦労することはなくなるかなと思います。
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正しい答えを導き出すために必要なことを書いてみます。

数学でも何でもそうですが、
まずは問題を理解すること。
次に、その問題を解くために必要な材料を揃える事が重要です。

日常生活では、この材料選びが意外に落とし穴だったりする事はままあるものです。

正しい答えを導き出す為に必要なのは、
「確かな根拠」を用意する事です。

曖昧ではっきりとしない根拠を用いて、
論証してはいけません。

論証に用いる根拠が確かなものでないと、
そこから導出される答えも必然的に不確かなものになってしまいます。

よくあるのが、
80%位確かな根拠に対して、
100%確かな根拠を何個もくっつけて主張してしまうというものです。
問題を解く際には全ての根拠が正しい必要があります。
専門的には主観に訴える論証とかそんな感じの名前がついていたかなと思います。
よくプロパガンダ等で多用される誤った論法として紹介されるものの1つです。

80%×100%×100%×100%・・・・・・・・といくら100%確かな根拠を重ねたところで
そこから出てくる答えは、簡単な話、80%確かな結論でしかありません。
100%正しい答えが出てくる保証はありません。
(偶然答えが一致することはありえますがw)

普段の生活で何かしらの問題を解く際には、
100%確実に言える事を集めることに集中することが重要です。

それらを元に考えると、自ずとそこから導き出される答えは信頼に足るものとなります。

この方法論は、学者が実際に研究の際に用いている方法ですが、
日常生活でも有効です。

まずは、
問題の性質を理解すること。
次に、
その問題を解くために必要な100%確実な根拠を集める事です。

不確かな根拠に基づいて導き出された答え程人を困惑させるものはありません。
場合によっては、人を誤った方向へ導いてしまう事もままあるものです。
暇なので、何となく「論理学」について再考してみる。

-問題とは、人が問題だとした瞬間に問題となる性質のものである。
 つまり、人の意識に根差した性質のものなのだ(出典:どこかw)

最初の記事では問題の性質に書いてみようと思います。

問題の性質というのは最初に考えないといけない事柄なのですが、
普段の生活ではどうしても見過ごしがちになってしまうものです。

問題の性質には、大きく分けて2つあります。

1つ目は、二値的な答えを要求するもの。
2つ目は、確率的な答えを要求するものです。

例えば、ある人の死亡が確認された後で、
その人は生きているかもしれないと考えるのはおかしい。

人の生死は、二値的な答えを要求するという事です。
また、生きていることと死んでいることの中間であるというのもおかしい。

同様に、明日は晴れる!と言い切るのもおかしい。
明日の天気は確率的にしか判らない事なので、
確率的に応えるべき性質のものだからです。

自分が解きたい問題の性質はどんなものか、
を考えることは重要です。

確率的な答えを要求する問題に近いものに、
程度を問題にする問題というものもあります。

そのカレーの味はどんなかと質問され、
そこそこ辛いと答えても何も問題はありません。

二値的な答えを要求する問題について論理式を書いてみます。

Av非A(その人は死んでいるか、又は生きているかのどちらかだ<排中律>)
※ここではAは、その人は生きているの意味。vは又はの意味。
Aの死亡が確認された場合。
A=0(Aは偽、その人は生きていない)
∴ 非A=1(その人は、死んでいるは真)
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